激しい水流が呼吸を奪う。息が出来ない。
全身を打つ水流に耐えながら目を開けると、目的の人物の姿を求め、周囲に視線を配らせる。
不鮮明な視界には人影どころか、前に伸ばした自分の手さえもどこにあるのか分からない。

(ユートっ!)

全身を襲う水流は視界だけでなく、体の動きをも奪う。
けれど、どこかにいるはずのその人物を探すため、必死で水流を掻き分け、進む。

その時、ふとデジャブに似た感覚がシュアンの全身を襲った。

(こんなことが前にも・・・・・)

そうだ。
いつかは思い出せないが、あの時もオレは同じように水の中で誰かの名前を呼んでいて・・・。

(あれは、誰だ・・・)

必死で記憶を探るが、思い出せない。
思い出そうとすれば酷く頭が痛んだ。

だけど、感じる。
それがどれほど自分に大切なものだったということが。

頭痛を堪え、シュアンは強く唇を噛んだ。
その時、視界の端で漆黒が揺れた。

「っ!」

頭の中で何かが弾ける。
肺に水が入るのも構わずにシュアンは叫んだ。


「・・・・ーリっ!」




~忘却と混迷の果てに 最終話~




「・・・リ!・・-リ!ユーリっ!」
自分を呼ぶ声にユーリはゆっくりと瞼を開けた。
「・・・・ヴォ・・ルフラム・・・?・・・あれ?俺どうして・・・」
「川に落ちたんだ。覚えてないのか?!!」
「かわ・・・?」
その言葉に記憶を辿る。


急速な浮遊感。
全身を覆う水流。


そして、琥珀色の・・・―――、


「っ!」
バッと体を起こすと、ユーリは周りを見渡たした。

水圧に押され、息苦しくて、もうダメだと思って目を閉じようとした時に視界に写った琥珀色の髪。
あれが見間違いじゃないのなら・・・・、

「コンラッド!」
見ると、少し離れた所に瞳を閉じたまま横たわるコンラッドの姿があった。

青白いその顔色に、何故という言葉よりも先に恐怖が襲う。


―――また、なのか・・・?


ユーリの指先がカタカタと小さく震えだす。

「大丈夫です。気を失っているだけです」
ユーリの考えを読むように、傍らに膝を落としていたヨザックが言った。
「あなたを俺に渡すなり、急に倒れまして。水も飲んでいないし、目だった外傷もない。念のため先ほど医者にも来て看てもらいましたが異常はないそうです。 すぐに目を覚ますと思いますよ」
「ホントに・・・?」
「えぇ」

その言葉に、どこか緊張した様子でコンラッドの傍まで歩み寄ると、膝を付き、その青白い頬にそっと手を伸ばした。

冷たい。
だけど、時間が止まってしまった時の冷たさじゃない。生きている冷たさだ。

「・・・っく・・・っ」


―――生きている。


そう分かった瞬間に、喉から嗚咽が零れた。


―――また、失うかと思った・・・・。


あの時みたいに。
あんな思いは、二度とごめんだ。

その時、目の前のコンラッドの瞼が小さく揺れた。
「コンラッド!」
その呼び声に反応するかのように、ゆっくりと瞼が開き、視線が合う。
「・・・ユー・・リ・・・」
「!」
小さな声だが、しかし確かに言われたその言葉に目を見開く。
一体どれくらいぶりだろうか。

もう二度と、その名前を呼んでもらえることはないと思っていたのに・・・―――。

「ずっと・・・あなたの元に帰りたくて・・・・」
視界がぼやけ、こらえていた涙が溢れ出す。
そっと手を伸ばすと、コンラッドはその目元を優しく撫でた。
「遅くなって・・・すみません・・・」
申し訳なさそうに、コンラッドは小さく微笑した。

「遅いよ、バカコンラッド・・・・」
そう言うと、ユーリもふわりと笑みを浮かべた。


「おかえり」



++++++++++++++++++++++



―――どういうこと・・・・?


目の前の光景に、カリダは言葉を失った。

〝シュアン〟が笑っている。
今までずっと一緒にいて見たこともないような顔で。

だけど、それよりも視界を捉えて離さないのは・・・・


「くろ・・・・」


先ほど自分の前にいた少年の髪は茶色だったはずだ。
だが、水に濡れてツヤツヤと光る髪の色は、実際には見たこともないけれども話では嫌というほど聞いたことがあるものだ、

「・・・・っ」

ガタガタとカリダの足が震えだす。

その時、ふと視線の先の人物が振り返った。
バチリ、と視線が合う。

一瞬躊躇うしぐさをしたが、少年はゆっくりと膝を上げるとこちらへと足を踏み出した。


―――いやだ、来ないで・・・っ!


逃げ出したいのに、足が震えて動かない。
拒絶の言葉は声にならずに、口を開けたままカリダはただ首を横に振り続けた。

連れていってしまう。
あの人が、あの方が、連れていってしまう。

しかしカリダの意図に反して、少年は真っ直ぐにカリダの方へ歩み寄り、その前で足を止めると、
「ごめんっ!」
そう言って、勢いよく頭を下げた。
「やっぱりコンラッドを置いては帰れない」
「・・・・どうして」
視界が滲む。


―――どうして私なんかに謝るの・・・・・?


「魔王陛下なんでしょう?」という言葉は、声にならずに喉の奥に落ちていった。
いっそ何も言わずに無理矢理連れていってくれたら良かった。
そうしたら何も知らずにただ憎んで、この人があの人を連れていったと、そう思えたのに。
彼が自分の意志でここを出て行くのではない、と。

「ユーリ」
背後からあがった声に、カリダはビクリと体を揺らした。

「あとは俺が話します」

そこに立つ姿はさっきまでと何も変わらない。
変わらないはずなのに何故かひどく遠く感じて、カリダは静かに瞳を閉じた。



++++++++++++++++++++++




「記憶・・・・・戻ったの?」
ユーリ達とは少し離れた木の下で、その木に寄りかかりながらカリダは尋ねた。
「・・・・・・あぁ」
「そっか・・・良かったね」
と言って笑ったが、すぐに笑みを消すとしばらく沈黙した後カリダはゆっくりと口を開いた。
「・・・・・・・・・・記憶がない間のことは、覚えてるの?」
「・・・うっすらと。夢の中の出来事ようにだけど」
「夢、か・・・・・」
小さくそう呟くと、カリダは自嘲するかのように小さく笑みを浮かべた。

夢のような時間だったのだ。彼にとっては。
なのに自分はそれが現実だと思い込んでいた。

「だけど、世話になったということは覚えてる。ありがとう」
「っ!」

ふわりと優しく笑みを向けられてカリダは思わず息を呑んだ。

ずっと一緒にいて、彼の全部を知った気でいた。
だけど、それは間違っていた。


―――こんなに優しく笑うんだ・・・・


知らない彼の姿に、嬉しさと同時に悲しさがこみ上げる。

「・・・・あの、ね・・・」
思わず涙が溢れそうになって、カリダはぎゅっと拳を握った。

聞かなくっちゃいけないことがある。
多分聞いたら全ては本当に夢のように消えてしまうだろうけれど。

ちらりと一瞬だけ、遠くの岩陰にいる少年の方へと視線を向けた。その姿は見えないけれど、心配そうな気配だけはどことなく伝わってくる。

あの人は逃げなかった。
だから私も逃げない。


「・・・・行く、の?」

ザアッと風が吹き、二人の間を通り抜けた。
カリダは目を逸らさずにコンラッドを見つめていた。
コンラッドは一瞬眉根を寄せたが、しかし迷うことなく頷いた。

「あぁ」
その答えに、カリダは俯いて「・・・そっか」とだけ呟いた。

そうして最後に「ありがとう」と言って笑った。


++++++++++++++++++++++


「ユーリ」
その声にユーリの肩がビクッと揺れる。
「終わった、の・・・?」
「えぇ」
そっとコンラッドの肩越しにその背後へ視線をやるが、カリダの姿はもうどこにも見えなくなっていた。
「ヨザックトとヴォルフラムは?」
「あ、ヴォルフラムは向こうに荷物置きっぱなしだからそれ取りに行って、ヨザックはグウェンダルに報告しに・・・」
「そうですか」
「・・・・・・本当によかったのか?」
「俺の居場所はあなたの傍だけです」
恐る恐ると言った様子で尋ねられた言葉に、微笑を浮かべながらそう答えると、コンラッドはそっとその体を引き寄せた。
「・・・・・・記憶がない時も、ずっとこうしたかった」
「え?」
聞き取れなかったのか、見上げてくるユーリの目元をそっとなぞる。
「すいません、俺のせいでいっぱい泣かせてしまって」
うっすらと、だが、確かに残っている記憶を思い出し、コンラッドはすまなそうに謝った。

思い出すのは、辛そうに瞳を歪めた顔や、泣き顔だけだ。

「だけど・・・たとえ記憶がなくても、いずれ俺はここに来ていましたよ」
何度も主人との約束を破ってこの人と共に行ってしまおうと思った。
涙を拭って、この手の中に抱きしめて、俺だけを見て欲しいと、そう思っていた。

「ずっと呼んでいたんです・・・」
あの暗くて激しい水の中で。
自分が誰だか分からなかった暗闇の中で。

「ユーリ」

名を呼んでその体を強く抱きしめる。




忘却と混迷の果てに、俺はまた、あなたを見つけた。



++++++++++++++++++++++



「うわぁぁぁぁん!!!!」
泣き叫ぶカリダの背を、父親は優しくさすった。
「よしよし」
その父のシャツに顔を埋めながらうっうっと嗚咽をこぼす。

あの後、城へ戻るユーリ達を見送る時も、その帰り道もカリダは泣かなかった。が、一歩家に入るなり線が切れたように泣きだした。

宥めるようにその背をポンポンと叩く。
「それにしてもまさかあの方が魔王陛下だったとはなぁ・・・」
自分が彼にかけた言動の数々を思い出してしまい、思わず顔が青くなってしまう。


あの後、記憶が戻ったコンラッドは主人に頭を下げ「約束を守ることは出来なくなった」と言い、「自分に出来る他のことならなんでもする」と言った。
が、しかし目の前にいるのがかの有名な「ルッテンベルグの獅子」だと聞かされた主人は青白い顔で「めっそうもない!」と首を振った。
しかも、ずっと子供だと思っていた子が、魔王陛下だと分かっただけでも驚きだったのに、「内紛のことは俺が責任を持って治める。安全に生活できるようにするから信じて欲しい」とまで言われては、「ははぁ!」と頭を下げずにはいられなかった。


「やっぱり偉大なお方だよなぁ・・・」
その言葉に、カリダはピタリと泣くのを止めると、ゴシゴシ目元を袖で擦った後、バッと立ち上がった。
「父さん、あたし絶対いい人見つけるわ!」
「お、おぉ・・・」
あまりの迫力に、少々押されぎみに頷く。
「それでね、いつか王都に行って陛下と・・・あの人に会うの。私はこんなに幸せですって言うの」
真っ赤な目でカリダは遠くを見つめた。
娘のその姿に父はニッコリと笑って、

「そうだね」

と頷いた。
その声があまりにも優しくて、カリダは結局その日一日中泣き通した。

いつか胸を張ってあの人たちに会うために、明日からまた立って歩く為にも、今日だけは思う存分泣いておこうと思いながら。




おわり♪



長くなりましたが、ようやく終わりました。
長々とお付き合いさせていまい申し訳ございませんでした。


(08.11.22)



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