― 薄れゆく記憶の中で 2 ―
『今まで悪かったな』
ぼーっと部屋の天井を見上げながら、拓海は別れ際に言われた啓介の言葉を思い出していた。
――これで、良かったんだよな…
問いかけるように胸の中で呟く。
――……なんだかあっけなかったな
自分の言葉に『…そっか』と呟いただけで、何も言わなかった啓介を思い出す。
別に引き止められることを願っていたわけではないけれど、それでも啓介がそう呟いた時、確かに寂しいと感じてしまった自分がいた。
「これで良かったんだ…」
言い聞かせるように拓海が呟いたその時、傍に置かれた携帯が鳴り響いた。
ビクリと心臓がはねる。
しかし、
「……涼介さん?」
ディスプレイに表示された文字に、ほっとすると同時に胸が小さく痛む。
(あの人から掛かってくるわけないじゃないか…)
「……もしもし」
どこか重い気分のまま電話を出る。
『藤原か?!』
珍しく焦った様子な涼介に何かあったのだろうかと首を傾げた瞬間、その後に告げられた言葉に、拓海は何も言えずにただ呆然とその場に立ち尽くした。
「涼介さん! 啓介さんは?!」
すれ違った看護師の人に、「院内では走らないで下さい」と注意されながら、駆け足で病室の前までくると、そこにいた人物に問いかける。
「もう峠は越えたそうだ。今は眠ってる」
「そう…ですか…」
詰めていた息をほっと吐き出す。
そんな拓海の様子にふわりと瞳を細めると、しかしすぐに涼介は険しい表情を浮かべた。
「だがな…」
「?」
「さっき医者から聞いた話では、どうやら数分間心臓が止まっていたらしく、もしかすると目覚めた後、何らかの障害が脳にでるかもしれんという話だ」
「そ、んな…」
〝心臓が止まっていた″という言葉に拓海の顔から血の気が失せる。
「助かったのが奇跡だったそうだ。だが、人一倍運の強いやつだ。大丈夫だろう」
真っ青な顔をした拓海を安心させるように、小さく微笑みながらその頭を軽くなでる。
本当は自分も心配で仕方がないはずなのに、自分を気遣って顔に出さないようにしているのだろう。
いつもはきちんと整えられている髪の乱れ具合がそれを表している。
「すみません…」
「何を謝ってるんだ? まぁ、とにかく会っていってやってくれ。いつ目が覚めるかはまだ分からないらしいが」
「あ、はい」
涼介に続いて、拓海も病室に入る。
扉を開けると、てっきり横になっているものと思っていたのに、啓介はベッドから体を起こし外を見ていた。
「啓介、目が覚めたのか?!」
「……アニキ? ここ…どこだ? なんか体がいろいろ痛ぇんだけど」
「……どうやら、大丈夫そうだな。 ここは病院だ」
ほっとした顔でそう告げる。
「びょう、いん……?」
涼介の言葉に驚いたように啓介が目を見張る。
その時、啓介の視線が涼介の後ろにいる人物に向けられた。
視線が合い、ドクンと拓海の心臓が大きく跳ねる。
しかし拓海の姿に啓介は、喜ぶわけでもなく、ただスッと瞳を細めると、今まで聞いたことのないような低い声で、
「…誰だ、お前」
と言った。
「部分的な記憶の欠落だと思われます」
ギシリと椅子を軋ませながら、医師は言った。
「俗に言う記憶喪失というものですね。 高橋さんに確認した所記憶の欠落はおおよそ今から2年前から現在に至るまでのものでした。記憶というのは新しいものから消える傾向にあるので、その為でしょう。……こう言ってはなんですが、これぐらいで済んで良かったです」
「………」
医師の言葉に、拓海は何も言わずにただ俯いていた。
「大丈夫か?」
部屋を出るなり、涼介が心配そうに尋ねた。
「……なんともありませんよ」
「自分の顔を鏡で見て来い。 真っ青な顔をしてるぞ」
「………」
涼介の言葉に黙り込む。
「今日は…もう帰ります。先生も、無理に思い出させるなって言っていたし、知らない俺がいたら、啓介さん困るだろうから…」
そう言うと涼介が何か言う前に踵を返すと、
「それじゃあ」
と言って拓海は逃げるように病院から駆け出した。
「……具合はどうだ?」
部屋に戻った涼介は、ベッドの上の啓介に問いかけた。
「……なぁ、アニキ。さっきの奴は誰だ?」
啓介の言葉に、涼介はピタリと動きを止めた。
『とにかく今はなるべく刺激せずに、追い詰めたり、無理に思い出させようとしないで下さい』
先程の医師の言葉が脳裏を過る。
しかし…――
「……なぁ、啓介。 俺はお前も大事だが、あいつも同じくらい大事なんだ」
「………」
「せめてあいつのことだけは思い出してやってくれ」
今まで見たことがない兄の表情や声に、啓介は驚きを感じながらも何も言えずに黙り込んだ。
啓介が好き。拓海が好き。そして同じくらいアニキが大好きです。